小学校2年の時にサッカーを始め、室蘭大谷高校サッカー部時代には3年連続で全国高校サッカー選手権大会に出場。2年時からユース代表、3年時からバルセロナオリンピック代表候補にも選ばれた。
幾つものチームからオファーを受ける中、特に熱烈だった東京ガスサッカー部(現FC東京)への入部を決めたが、地域リーグに所属する東京ガスに入れば日本代表が遠のきかねないと翻意。永井良和の誘いで高校卒業後の1990年4月に古河電工に入社し、1991年5月に東日本JR古河サッカークラブ(現ジェフユナイテッド市原・千葉)とプロ契約。
Jリーグ開幕から半年後の1993年10月1日、ヤマザキナビスコ杯第5節ガンバ大阪戦で公式戦初出場を果たしたが、11月28日午前4時40分、車を運転中に脇から急に出てきた車を避けようとして電柱と正面衝突し脊髄を損傷。下半身不随となって車いす生活を送ることとなり引退を余儀なくされた。同期入社の女性との結婚式を2ヶ月後に控えており、事故に遭った日は衣装合わせをする予定だった。結婚式は延期されたが、1994年10月23日に結婚式を挙げた。
1994年、身体障害者手帳の交付を受けるため訪れた浦安市役所の福祉課で受付をしていた車いすバスケットボールの元日本代表ヘッドコーチ小滝修と出会い、後日誘われたのがきっかけで車いすバスケットボールを始めた。車椅子バスケットボールチーム千葉ホークスの中心選手として活躍し、2000年のシドニー、2004年のアテネ、2008年の北京と、3大会連続でパラリンピックに日本代表として出場。北京パラリンピックでは日本選手団の主将を務めた。
ロンドンパラリンピックを最後に現役を引退。京谷にとって憧れの存在であった羽中田昌との出会いを経て、サッカー指導者へ転向。
現在は障害者向け転職サービス『DODAチャレンジ』を展開する総合人材サービス会社「株式会社インテリジェンス」にて、障害者リクルーティングアドバイザーとして勤務。また、全国各地で講演活動を行っている。
|